株式会社宮崎商店の歴史・沿革
戦国時代、武将の人生訓として、豊臣秀吉の知恵袋とされていた黒田官兵衛(黒田如水)が作った教えと言われていますが、この書は一部先々代が変えて書かれたものです。
砂糖の日本到来
砂糖は奈良時代(710~784)に唐より鑑真和上(がんじんわじょう)が伝えたと言われています。日本で本格的な砂糖生産が始まったのは、台湾の砂糖事業の発展によります。日露戦争後、日本の領土となった台湾の殖産事業として新渡戸稲造(に とべいなぞう)が発案開発をした砂糖キビ栽培が台湾全土に広がり、明治時代後年から昭和10年代にかけ砂糖事業が台湾の中心産業に発展しました。そこで生産された大量の原料糖が、主に東京に輸送され加工されるようになり、文明開化の槌音と共に精糖業が盛んになったのです。
『玉糖』と宮崎商店
宮崎商店はそのような背景のまっただ中の大正7年、初代宮崎逞吉が東京市深川地区千田町(現江東区) で「宮崎逞吉商店」を創業し煮蜜業を始め、やや遅れて手づくりで造り始めたのが「玉糖」でした。工場の片隅で薪を燃料に砂糖原液を鉄の大釜で煮つめて濃縮 した後で木の桶に流し込み、板ヘラで揉んで造るという大変手間のかかる作業でしたが味が良いと目下の評判でした。 手づくりのため1日に500kg 程しか出来ませんでしたが、品物が良いと全国に評判が広がり、千田町の工場はたちまち手狭になってしまいました。 昭和10年に現在工場が有る東砂に引っ越し昭和28年に法人化後、今日の「株式会社宮崎商店」となりました。 江東区に国内初の精製糖工場が有った事から、当区は精製糖工業発祥の地とされていますが、当時は区内に約数十社の砂糖業者が有ったものの現在では、昔ながらの職人魂で頑固に暖簾を守って来た弊社1社 のみとなりました。詳しくはこちら 一般に砂糖と言えば精製糖(白糖)と思われていますが、弊社では創業以来「玉糖」にこだわり、精製糖が加工過程で失う含蜜糖特有の風味 を守っています。これからも初代からの製法と味を継承して「玉糖」づくりに専念し、皆様に安心してお召し上がり頂けますよう社員一同精進して参ります。
玉砂糖の名称の由来
大正時代頃より、インドネシア南方の島々より現地で機械化の設備のない島民が、サトウキビの搾り汁をそのまま釜で煮つめ平たい桶に入れ、ヘラでもんで自然に乾燥させて造った含蜜糖が輸入されました。 この砂糖は乾燥過程で出来る蜜玉(直径1㎝位)が多く入っていたので玉砂糖と呼ばれてその風味を愛好されていましたが、現地で製造管理が粗雑で異物が多く入っていたので、日本国内で粗糖に糖蜜を加え釜で煮つめて成分的に同じ様に玉砂糖 を造って販売しました。 輸入した玉砂糖に対して国内で作ったものは人工的に造ったとして、人造玉砂糖と区別して人玉(業界内での呼び名)と呼ばれるようになりました。 昭和35年ごろ、業者や農林省で呼称の統一をしようということで玉砂糖を赤糖と呼ぶことにしたが、台湾の好上斗(ハウシャントウ)は紅糖と表示し我々国産のものを赤糖としています。当社としては、黒い砂糖を赤糖と呼ぶことに抵抗を感じ、また昔の懐かしさもあり、玉砂糖(人玉糖)と呼んでいます。
株式会社宮崎商店 会長 宮崎喜一 著
沿革
大正7年7月(1918) | 江東区千田町に「宮崎逞吉商店」を創業。 (煮蜜製造から始まり その後玉糖製造も始め徐々に増やしていく) |
昭和10年(1935) | 江東区東砂に移転 玉糖工場を新築。 (玉糖製造の比率が高くなり手狭になった為) |
昭和28年12月(1953) | 法人登記を行い、「株式会社宮崎商店」を設立。白糖工場を新築 。(新たに土地を所得し 当時流行の白糖工場を新築する) |
昭和43年(1968) | 白糖製造を中止。(白糖の過当競争が始まり採算が合わない為 玉糖に特化する) |
昭和44年4月(1969) | 宮崎喜一代表取締役社長に就任。 |
平成4年7月(1992) | 事務所ビルを新築 |
平成7年12月(1994) | 倉庫を新築(南側) |
平成10年1月(1998) | 宮崎文幸、代表取締役社長に就任。宮崎喜一、取締役会長に。 |
平成15年9月(2003) | 工場を新築(南側) |
平成16年3月(2004) | 倉庫を新築(北側) |
平成30年6月(2018) | 小袋工場を新築 |
令和2年4月(2020) | 破砕作業場を新築 |
令和5年8月(2023) | HACCPに基づく食の安全規格「JFS-B適合証明」取得 |